墨俣の一夜城
墨俣の一夜城

岐阜県大垣の墨俣城は、「一夜城」としても有名な、秀吉ゆかりの城。 秀吉が出世するきっかけとなった城として有名ですが、現在でも不明なところが多く、謎に包まれた伝説のひとつとなっています。 墨俣城がある土地は、長良川という川の西岸で、当時から交通・戦略的な要となる場であったそうです。

Read more

備中大返し
備中大返し

備中大返し、中国大返しとも呼ばれるこの出来事は、中国地方に侵攻中だった秀吉が、明智光秀による謀反(本能寺の変)により織田信長が死んだことを聞き、ありえないほどの速さで明智光秀のいる山崎の地へたどり着いたことを指して呼ばれています。

Read more

豊臣秀吉の銅像

サイト紹介

豊臣秀吉

戦国時代の「三英傑」のひとりとして、織田信長や徳川家康と並んで有名な天下の武将・豊臣秀吉。 歴史好きや戦国武将ファンからの人気も高い豊臣秀吉ですが、織田信長の忠臣であったことや大阪城を築城したこと、太閤検地や刀狩令などの政策によって天下を治めたことや、朝鮮に出兵したことなど以外には、意外と知られていることも少ない人物です。 秀吉倶楽部では、あまり知られていない秀吉のプロフィールや、歴史の教科書にまでは載っていない謎に包まれた部分を徹底的に紹介していきます。 秀吉は、織田信長の仕官のなかでも、とくに機知に富んだ人物であり、その機知を生かした戦略や、裏に隠されたといわれる逸話などが多く残っていて、今でも多くの歴史の研究家に注目されています。 1598年に秀吉が亡くなったあと、17年の歳月の後に豊臣家は、同じく三英傑のひとりであった徳川家康に滅ぼされてしまいますが、それでもなお、多くの記録が残されている豊臣秀吉。 彼がどんな人物だったか、どういった功績や逸話を残したのかなど、詳しく知ってみましょう。 日本各地に縁のある話も多いので、知っておくと旅行などでもさまざまな楽しみ方ができます。

秀吉の人物像

従来、豊臣秀吉の生誕は1536年といわれていました。 しかし、最近の研究で、いくつかの文献による記載などから1537年の生まれである説が有力となっています。 また、農民の出自であるという話にも、豪農や名主のような裕福な百姓の父を持っていたという話が出ています。 今となっては農民と百姓はまったく同じものとして扱われることが多いですが、当時は違っていました。 秀吉の父は百姓であり、また織田信長の父に足軽として仕えていたともいわれており、普段は農業を営んでいたといえども、普通の農民とは違いがあったとされています。 しかし、父がなくなり、母が再婚したのちは、義父との折り合いが悪く、日ごろから暴力などを受けていたそうです。 織田信長の仕官であったことが有名ですが、最初から織田家に仕えたわけではなく、最初は17歳のころに今川義元のもとで使えていた松下之綱の仕官になったといわれています。 その後、優秀すぎるために松下の仕官である同僚たちに快く思われず、松下のもとを去った秀吉が、その後まったく関係ないはずの織田信長の仕官になれた理由のひとつとして、先に述べた「父親が織田家に仕えていた」というものが有力な説として語られています。 そのほかにも、機知に富み、陽気な性格であったことや、右手の指が6本あったことなども、秀吉の特徴として書物などでも語られています。 天下統一まではそうした陽気な性格や献身的な態度など、「人たらし」と呼ばれた単純で明るい性格だったようですが、天下統一後、息子や弟・母などの死が相次ぐなど、さまざまな理由で性格が急変していったともいわれています。 順風満帆に出世したかのように語られている秀吉ですが、実はとても苦労をしており、また急激な性格の変化なども経験しており、その数々には今もなお多くの謎や議論が残されています。